[首相の話]

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Curtin

1941 年のある冬の夜のことです.
いつものように夜中の 12 時に店を閉めようとしたガンダガイ NSW の田舎町. キャンベラから 200 キロほど)のナイアガラカフェの店主は, 店のドアをどんどんたたく音を耳にしました. 「もう終わりだよ」と大声で答えたのですが, 音は鳴り止みません. いぶかしく思った店主は, かぎを閉めたドアのところまで出て行きました.

国民の誰もが知っている顔をドアの隙間から見て, 店主は一瞬息を飲みましたが, 平静を装い, 「こんばんは, カーティン首相. いらっしゃいませ. 」と一団を迎え入れました. 一行の中には大臣の顔も, 上院議員の顔もありました. カーティン首相はいいました「腹が減って仕方がないんだ. 何か食わせてくれ」.

店主はステーキサンドイッチとフライドエッグを調理し, 山盛りにして皆に振舞いました. 店主と四方山話をする中で, 戦時中の配給のことに話が行きました. 店主は言いました「月に紅茶の配給が 25 ポンドとは, 店を経営する身としてはきついです. 何とかならないものでしょうか」. カーティンはいいました「わかった. 何とかしよう. 」.

次の月からナイアガラカフェの紅茶配給は一気に 100 ポンドに増え, キャンベラからメルボルン上の主要路 Hume Highway にあるガンダガイのこの店は, カーティン首相がここを通るたびに立ち寄るお気に入りの店となったのです.
(店内に飾られた新聞記事より)

これは, 我々が元旦にガンダガイに立ち寄った時に, 店内に展示してある記事から読んだものです. 食べ物屋らしきところはここしか開いてなかったので入ったのですが, 店内は二昔前を思わせるような懐かしく古びたつくりで, テーブルも椅子も, 列車内を模した木作りでした. 「カーティン首相来訪 50 年記念」の 1991 年の日付ののぼりもありました. この目抜き通り一本しかない小さな街で, いきなり現首相に来訪された店主の驚きは大きかったに違いありません. 今もその昔の思い出の中に半分浸って, 時代を逆行して存在するようなそんな店でした.

Holt

1967 年のクリスマスのことだった. 首相広報担当の Tony Eggleton は胸騒ぎがした. 彼が最初に有名人行方不明のニュースを聞いた時, 「いったい彼以外, どれだけの有名人が彼のお気に入りの Cheviot の海に週末に泳ぎに行くだろう」と. トニィホルト夫人は急遽特別機でキャンベラからメルボルンへと飛んだ.

「波が荒れていたにもかかわらず, 皆が見守る中, 彼は一人で海に入っていきました. 岩の間に渦が撒いていて, あっという間にホルト首相は潮流にさらわれていきました. 彼の白髪はしばらく波間に浮き沈みし, 海へと沈んでいきました. 」浜にいたものの証言はこうだった.

現首相溺れる!と言う緊急事態に, 悪天候の中捜索隊が組織されたが, 事態は絶望的だった. 専門家は言った「2 時間ほどでホルト首相は外海の底に沈んでいるでしょう」と.

メルボルン出身のホルトはよく週末にキャンベラからメルボルンへと向かったものだった. 空港から公用車とお供の警察官が一緒なのは Toorak のアパートまで, その後は一人で自家用車 Pontiac に乗ってお気に入りの Portsea へと向かうのだ. 私人になったホルトが週末を一緒に海で過ごすのは, 限られた親しい友人のみであった.

トニィは語る. 「 ホルトにとって首相になるのは全てではなかったのだ. ロバートメンズィ 氏のように, 首相になるのが目的で「人生の夢」と言うならいざしらず, ホルトは他にやりたいことが一杯あった. 私人としての自分も大事にしていたのだ」

「首相が自らの判断を誤り海で溺死」というこの出来事は, その後の首相達の生活を変えた. ホルト以後, 警護なしに自由に私人として振舞うことは出来なくなったのである.

ホルトはこの時 59 歳であった.
(The Age メルボルン新聞 2001 年 12 月 31 日付)

キャンベラの古い各地区 suburb には, それぞれ歴代の首相の名前が付けられています. 我々の住むクック Cook 地区も首相の名前を取っていますが, うちの地区の北西にホルト Holt, 湖の南に Curtin があります. 自分の生活地域とリンクできるので、昔の首相のエピソードを聞くたびに、実在の人物として場面がリアルに想像出来るほど、身近に感じられます。

February 21, 2002


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